獣の奏者のためだけのブログ

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獣の奏者 読書感想文

 この物語は王獣と闘蛇という二種の獣が非常に重要な役割を持っている。

物語の舞台となる「リョザ神王国」は、自身は兵を持たずその神威によって政治を司る真王、真王の代わりに国防を担う大公という二大権力が存在している。大公は最強の生物とされる闘蛇の軍隊を有している。しかし王獣は闘蛇の唯一の天敵で、それを操ることができるのは真王ただ一人と伝えられている。

大公領民は国防のために戦場で戦うのだが、真王領民からは「人を殺した穢れた人々」と蔑まれている。この両領民間の軋轢がその国を蝕んでいた。

このリョザ神王国はファンタジーでありながら現代問題に通じるリアリティがある。先進国と途上国の経済格差や軍事問題、この物語にはそういったところに繋がる奥深さがある。

さて、この物語の主人公、少女エリンは闘蛇の医術師の母親と二人で闘蛇を育てる村で暮らしていた。しかし、あるきっかけでエリンは母を亡くし故郷からも遠く離れることになる。その後色々な出会いがあるのだが、希少な野生している王獣を見るという決定的な瞬間が訪れる。エリンはそのとき見た野生の王獣の美しさに惹かれ、王獣の医術師を目指し、獣ノ医術師(獣医)になるための学校に入学した。

 ここにたどり着くまでに既に母との死別など波乱万丈なのだが、彼女の人生はまだまだ苦しくなる。ある日、エリンは怪我をした王獣の子供、「リラン」を世話することになる。リランを治療していくうちに彼女は世界で初めて王獣を懐かせることに成功してしまう。いままで王一人が操れたはずであったがためにエリンは政治の世界に引きずり込まれていく。エリンはただ怪我をしていた王獣リランを助けたい、なかよく暮らしていたいだけだったのに、政治利用された獣たちと同じく鎖に繋がれる人生になってしまうのか?そんなエリンの苦しいけれど、時折現れる幸福を噛みしめながら送る人生を、エリン目線で一緒に過ごす、そういった楽しみ方もできる物語である。

 現実に通じる世界観、少女エリンの人生。それだけでも十分に面白い。しかしそういった物語は他にいくらでもあろう。この「獣の奏者」がそれらと比べて勝っている、ひいては私が最も面白いと感じる作品である理由は他にある。

 「物語全体のバランス感覚」これこそが妙である。

 エリンが王獣を治療する際、昔見た野生の王獣の生態を保護された王獣に対して適用してみるといった場面が存在する。これはまさに科学の手法である。その他の医術に関しても実際の医師の監修が入っており、医療だけでなく地理や物理法則そのすべてが現実のそれと同じであると言って過言ではない。細かいところでは、作品中にはいわゆるカタカナ語は一切登場せず言語にも気を配られている。ファンンタジーではあるがこの世界は地球のどこかの歴史の一部と思わせてくるほどの地続き感だ。

 ここまで徹底されたリアリティをもちながらもこの物語はファンタジーというジャンルにキッチリと収まっている。それは、王獣と闘蛇という巨大生物と少女エリンの構図である。エリンが王獣を育てている際は意識せずとも読者の頭の中にそれが浮かんでいる、まさに王道なファンタジーの画が常にそこにある。

 また、政治の話と一人の少女エリンの人生どちらも描いているこの物語は、エリンに寄り添う視点と世界を上から眺める視点を交互に体験することになる。

 ファンタジー作品として王道な画を持っていながら濃密なリアリティを内包しており、小さな視点から大きな視点への切り替えの巧みさ。

 一人の少女の生きざま、現実問題に訴えかけてくるような世界観。それらもこの物語の面白い部分だ。しかしその根底を支える土台の良さにも注目してほしい。個人と社会、ファンタジーとリアリティ、そのバランスの良さこそが「獣の奏者」の魅力だと私は思う。

 

 

 

 

 

 

まえがき

獣の奏者エリン」は私が最も好きなアニメだ、そんな作品に出会って10年
今まで一度もちゃんと感想を書いてこなかったが意を決した

2009年8月22日土曜23時放送の21話「消えそうな光」の再放送
当時中学生だった私は、テレビ欄をみていた。ふと目に留まった「獣の奏者エリン」の文字
なぜか異常なほどそれが観たくてたまらなくなった。「運命の出会いは存在するか」と聞かれたらそれは「イエス」と言えるほどだ
そんな日から10年が経った

なぜ自分がこんなにも「獣の奏者」が好きなのか、今一度真剣に考えて文章にしました。

 

あとがき

ここまでこんなヒドイ文章を読んでくれた方がもしいらっしゃたら、それは感謝しかない。

なんで「まえがき」が本文の後なのかと問われたら「読書感想文ってタイトルにあるんだから、まえがきあったら嫌でしょ」でも、まえがきは書きたかった
普段文章なんて書かない、まして読書感想文がからっきしだった私にとって、自分の思いを書くのはすごく難しかった
一番好きな物語なだけあってなんとか1500字くらいは書けている。

読んでくれた人は分かるが、この感想文は私が出会って10年ということは全く触れていない。
それをやると感想文じゃなくなってしまいそうだったので。
どうしても獣の奏者の世界観の説明に割かれてしまうので遠回りになってしまったが、結論はファンタジーとリアルのバランスのよさこそが魅力といったところだ
基本的にはその1点に終われるように書いていたつもり

「鹿の王」を初めて読んだとき「ワクワクしない」と思ったのが発端になっている
なんでこんなにワクワクしないんだと考えたところ、詳しくは言わないが、推理小説の最後に名探偵が犯人を暴くまえに読者が気づいてしまっている状態になってしまっていた
上橋菜穂子作品自体がファンタジーの中でもリアル寄りだけれども、「鹿の王」はその中でもさらにリアル寄りだった
そのため現実の現象をそのまま適用できてしまい、現実の知識で病の原因を説明できてしまった

誰も知らない世界を冒険する、それはファンタジーの魅力の一つだと気が付いた

しかし、魔法でなんでもできる世界もそれは問題になってくる
現実に存在しないものなので深く(またはそこまで深くなくても)考えると必ずどこかで破綻する
そういう点において上橋作品はなんでもできる事は少ない

精霊の木:未来予知
守り人:平行世界
孤笛のかなた:化け狐
この3つは明らかに現実的ではない(月の森は未読)

獣の奏者が「王獣」と「闘蛇」という2滴のみファンタジー要素(それも生態は現実的)なのがその他との決定的な違いだと気づいた
だけれども鹿の王ほどリアルすぎもしていない

「音無し笛」というアイテムがそれを物語っている
笛を吹くと王獣と闘蛇は気絶する。その事柄をみるとファンタジーだが、現実にも大きい音で気絶する山羊が存在するし、マジックに使用されるハトは体を逆さにするだけでパニック状態になり静止する
全くありえない挙動ではない
また、音が出ない理由について説明はされないが明らかに人には聞こえない周波数を使っていることは明らかである。代表的なものでコウモリは超音波を使ってコミュニケーションを行っている
つまりこれもあり得る話なのだ
現実には存在しない王獣が音の出ない笛で気絶する。その画はファンタジーだがその裏は、すべてあり得そうなのだ

まだまだ説明したりないのだけれども、長くなりそうなのでこの辺で終わろう。

次は鹿の王のアニメが待ち構えている。まだまだ上橋菜穂子作品で楽しめそうだ